昭和45年8月18日 朝の御理解
御理解第95節「世には神をうって食うものが、この方は銭金では拝まん。神を商法にしてはならぬぞ」
皆さんもここの所は十分分かっておられるだろうと思うんですね。金光教の信心を頂いて、金光様のご信心は、あー、銭金で拝んで下さるのではない。ね、いわゆるその、そのものはいわゆる、なんと言うんでしょうか、あー、宗教が職業、商売だと。と言うような、あー、ものではない事を皆さんが、もよく分かっておられる事であると思いますが、そんなら果たしてですね、えー、この方は銭金では拝まんと仰るが、そんなら、あー、何を持って拝まれるかと。と言うことになりますね。
教祖の神様は、銭金では拝まん。ですからこれは、えー、金光様の出社そして、えー、(わけがわり?)として、んー、まぁ各地に沢山な教会がありますが、その教会はどうあらなければならないかと、やはり教祖様のその信条であるところの、いわゆる銭金では拝まんという、ね、祈祷料がいくらと。いくらなからなければ出来ん、といったようなものではない事は皆さんもよくご承知。
教祖様がそういう生き方をなさられた。そんならば、どういうような、あー、事で拝まれたかと。と言うと「人が助かる事さえ出来れば」というのであった。他には何も条件がない、いわゆる無条件である。人が助かる事さえ出来れば、と言う一念でお取次をなさった。また拝んでも下さったわけである。
処が最近、これは私共も含めてでございますけれども、果たして神を商法にしてはならんぞと、いましめておられるのに、果たして商法にしておるような事はなかろうかと、まぁ深く反省しているとですね、いわゆる人が助かる事さえ出来れば、ではなくて、ただ(けいしく?)に拝んでおる。
本当に人が助かることさえ出来れば、とう一生懸命もなからけんで、なけれ、なければ、真心もない。実意さもない。ただ大払いあげて、をごにゃごにゃ言うとるだけ。で、んなら、例えば沢山の信者のお取次をしておるとするなら、もうそれは助かる事さえ出来れば、という精神をかけておる。無条件という、言わば純粋なものがかけておる。一生懸命の思い、一生懸命の真心、一生懸命の熱意、熱意を持ってです、例えば拝んでやるという、お取次をさせて頂く、頂かないとするならばです、もうそれは、私は商法だと思うですね。
助かりもせんとに皆お初穂をお供えさせて頂いて、お供えを備えさせて頂いて、それが例えば教会がいじされておるという事だけであるならば、それは、もう商法じゃない。同じ事だ。
生活の為に、ごにゃごにゃ言うとるだけなんだ。御理解一つとかして頂くでも、さぁどうか言わにゃならん。ね、と言うて、御理解一つ、言わば(ようとかん?)人が沢山ある。よし、説いておってもです、ただ形式的なお話を、ね、言うならばしておるとするならばです、それはもう形だけの事ですから、それは商売に(話ござるとじゃん?)
本当はそんな人がありますの。いわゆるお説教番さんち言いますたいね。もういうなら、そのもう説教だけを専門に、その話して回られる。ほりゃもう泣かせたり笑わせたり、それこそ(こうだん聞く?)ごと上手にやんなさる。なるほど勉強もしちゃるですから、なかなか深い事も言われる。けれども御自身が身を持って行じてござらん、そのその教会には一人の人も助かっていないと、言うならですね、これはもう商売です。
いわゆるお説教坊主と言われても仕方がない。お説教だけ。ね、それで人が助からないとするならです、ほりゃもう本当に、私自身も、私も含めてですよ、ね、もう反省しなければならない。いや、金光様のご信心はここに教祖が仰っておられるように、銭金じゃ拝まん。なるほど。商法にはしとらん、と言うておらずにです、私共は本当に神を売っておるような事はなかろうか。商法、商法にしておらんか、ただ自分の職業のため、自分の一家が、例えば意地される事のためだけでそういう、人の助かりさえすれば、といったようなものがです、広がってないというするなら、私はもうもう反省しなければならないと思うんです。
私は昨日、おー、青年会の、おー、んー、金光教、金光教青年という冊子が毎朝、ん、月参りますが、その扉に、ん、まぁある意味で胸のすくような事を書いてあった。いわゆる(いわたりのすべ、いわたいづつ?)ね、えー、道徳、医学、ね、果ては料理の講習聞きよるとじゃなかじゃろうかと言うような、お話をするような教師が多くなったと言うような事です。教師とは狂ったしと書いてある。ね、時々弁護士の代わりまでさっしゃる。
あーもう家庭問題でしたと、自分が(六法ぜんしょう?)広げておいてから、それはこう言いなさい、こうしなさい。わざわざその、役所まで行ってでもしてやられると言う先生がおられる話をここの方から聞いた。
あんたお薬はなんば飲みよんのと、そりゃこんくらいの薬がよかばのちゅうごたる、も、医学ん、ね、金光様の信心はそう言うものではない。道徳的なものでもなからなければ、(いわたいづつ?)を教えるのではない。だからそういう事を言うておるのは、教師だとこう言うて、狂死とは狂うとるち言う事、狂うとる師だと言うような事を、私も他にもずっと書いてありますが、もう最近本当に私は(胸を突く?)ような事を書いておるなと思うて見せて頂いた。
だからそういうなのは、私はやはり神を商法にしておる。(へんじ?)。と私は思いますね。この方は銭金では拝まぬ、なるほどいくらなければ御祈念をしてやらんと言うてもです、してやらんと言うような事いわんにしてもです、ね、その拝んでやるという、お取次をするそれが誠意もなからなければ真心もない。熱意もない。ただごにゃごにゃ言うとるだけであるとするならば、もうそれはね、私は、銭金では拝んどらんかもしれんばってん、もう形式になっとる、いわゆる自分がそういうね、教師という手前、お取次をさせて頂いとる手前、拝んでやらにゃならんといったような、お話をせにゃんならんと言ったようなものであったとするならば、それはもう商法だと、私は、まぁいうなら決めつけるようですけれども、そう決め付けていかなければならんと、これはもう教師自身が。
ね、だからここの95節は、これは教会教師に対するお取次をさせて頂く者に対する御理解なんですよね。そこでですね、ならこの90、60、うー、95節からなら皆さんが頂かれるという事になったら、ならどういう事になるかと。
ね、教祖様はただ人が助かる事さえ出来れば、しかもそれをもう一心ふらんというか、実意丁寧の限りを尽くして、神様に御取次を下さった。
そんならお取次を頂く方の側は、例えばこの御理解からどういうヒントを頂き、おかげを頂かねばならんのだろうか。と言うことになりますですね。
なるほど実意丁寧は、これはもう教師もなか、取り次ぐ、取り次ぐ者、取り次がれる者両方にまぁ問われる事でありますね。
人が助かることさえ出来れば良いというて、教祖様はいわゆる無条件に、実意丁寧を持ってお取次を下さる。そんなら私共の方の側はですね、どうでもおかげを受けなければならんと言う姿勢を作らなきゃいけないと、ね、人が助かることさえ出来ればと、先生が一生懸命御祈念をして下さる。そんなら私共は、んならそれで安閑としておって良かろうはずがないじゃないですか。ね、それこそ、おかげはここに目の前に、出してくださってもようそれを受けきれない。ね、と言うことになる、だから受け物を作れと言うことにもなる訳ですね。
金光様が、人が助かる事さえ出来ればという一念で、いわゆる無条件でお取次を下さるなら、私共はです、どうでもおかげを頂かなければならないと言う姿勢を、一つ示してかからなければならない。
そこからね、私はいわゆるおかげを受ける。間違いのない働きと言うものを、おー、身に付けて行くわけですね。
おかげを受けることによって、どういう事になりますか。ここでは言わば銭金では拝まんと。ね、銭金では拝まんと、例えばお取次の者はその一念で取り次がせて頂かねばならん。金光大神がそうであったから、それに神習わせて頂かにゃならん。そこでんなら、取次を願う者はです、ね、おかげを頂かなければならないと言う姿勢という事の中にはね、どういう事があるかというとです、ね、やはり真心のこもった奉仕、思いを込めたいわばお供え。銭金では拝まんと仰ってもです、やむに止まれん思いが銭金にもなる、物にもなる。ね、そういう所をです、分からせて頂かないと、いわゆるおかげを頂く姿勢を言うものは出来てこないと思う。
はー、金光様のご信心なもう、おー、お賽銭だけでよか。いやもうお賽銭でんいらん。お願いをすれば、それこそ庭のちり場でも良いと仰るくらいじゃから、と言うて、これはいわゆるお取次を願う方の姿勢ですよ。
ね、取り次ぎをして頂く者は銭金では拝まんと言う、助かりさえすれば良いと言う一念と。それを取次を願う氏子の者、側としてです、ね、先生にばかりご苦労をかけておる。先生にばかり修行させて頂い、頂いておる。本当に相済まんと、言う思いがね、銭金になったり物になったりして、その真心がそういう形に表れて来るという所にです、私は金光様のご信心があると思うです。
ね、私は95節からそういう風に、まぁここは教師に対する御理解とだけに言わずに、信者側の方でも、先生方がそういう気持ちでお取次を下さるのなら、信者側の姿勢としては、やはりこうなからなければならないという事になり、ね。
昨日もある方が、お参りして見えましてね、日田に行っておられた。であちらで、まぁ名物の(おるかおとんべん?)のところに、まぁ頼んでから、お供えをして見えた。そしたら、その夕べお参りして見えてからのお話ですが、先生は、ね、大根一本でも神様がなま、な、言わば生鯛として、いわ大きな鯛として引き受けて下さることもある。
けれどもね、いかに生鯛を、大きな鯛をお供えしても、大根が確かなか事もあるよ、という御理解じゃった。もうそれこそ皆に(ごすんこ?)言うたりの思いが致しました。実はあれは、さぁ、そ、あちらにはそば饅頭が良かろうかなにやら色々思いよった。所がもう疲れとるもんじゃけん、もうそこでかいくつがきつかったけんもう、よかよかこれでよかと、いち言うような物だったと言う事。
ね、折角やはりお供えをさせて頂くなら、ね、それこそ大根のお供えでも、生鯛でをする、お供えを受けて下さるほどしの思いがいる事が分かるでしょうが。
夕べまた出て見えてその事を言われるんです。実は先生もう今朝からね、ああ言う御理解を頂いてから、本当に神様は見通しだと思いましたと、こういうのである。だから、いわゆる、信者側の方としてはその事が出来なきゃならない。
昨日は(きせず?)して、えー、いわゆる金光青年と、それから東京の泉尾教会の、おー、息子さんが東京に出ておられる、そこから何と言うか「願い」じゃなかった、「証?」か、「証」という本が年に何回か出ておる。それを送って来て下さってあった。それを読ませて頂いたら、そのせ、あの、青年会、あのー、金光青年にもそれが書いてあり、それにもやっぱり同じような事が書いてあった。
これは、あー、泉尾の教会はやはり、玉水教会が親教会ですから、その玉水の初代の事が書いてあった。それにはね、いず、玉水の、「湯河先生?」がどういう事を言うておられるかと言うとね、あの、人の懐をあてするな、神様の懐を、に手を突っ込めと言うておられれる。いわゆる大阪弁でそういうふうに説いてあります。
人の懐どんあてするなち。ね、人の懐は限りがある。神様の懐はもう無尽蔵だと。事実、「いくわ先生?」ご自身が、それこそ限りない、限りないおかげを頂かれた。
ある時に、ある先生が「湯河先生?」にお訪ねをした。「湯河先生?」お宅ではもう何十人という修行生がおりますが。ね、食料の方やらはどげな風なさっておられますか?ち。家も書生が一人欲しいと思いますけれども、書生一人にまぁ、きてもらうとそれだけでやはり食料が余計いる。いやまぁ、書生さんにも来てもらう事が出来んと言うような事を言われたら、「湯河先生?」がですね、自分が賄おうと思うとるからいかんのですよ、ち。
ね、はい、書生がまた一人増えましたと、神様にお届けしときゃちゃんと神様が、十人の時には十人、二十人の時には二十人の食料を神様が集めて下さいます、と言うて教えられたという事です。
いわゆる、神様の懐に手を突っ込んでおられるから、それが言えられたんです。無じんぞう、限りがない。と同じような事をです、言わば、あのー、金光青年にも書いてあった。これは私言わなかったけど、あのー、四国の「双岩教会?」の事が書いてあった。そこにやはりむじんぞうという事の、ね、事をあの、四国一番のごひれいの立つ教会です。らしいです。
そこの先生は、そおらしいですね。もう必要なものが必要に応じて、まぁ頂けれるんだと、限りがないのだと、御神徳を受けなきゃいけません、御神徳を受けりゃ、限りない、言わばお恵みを受ける事が出来るという、教会なんです。
まぁそれをこれを読ませていただいてから、まぁ合楽もおかげを頂いてね、まぁ本当そのちょっとした見本のようなものではあるけれども、ささやかではあるけれども、むじんぞうのものに合楽もやっはりつながらせて頂いておるなーと思うんです。
ね、ここなんかの場合はさぁ、もう毎日それこそ現在は、えー、何十人の、おー、家族以外のものが、食事を致します。ですから一々そんなに神様に(ゆかぜん?)せなん、お届けする事もなか。けれども神様の方が先回りしておかげ下さってある。ね、これは食料だけの事ではありません、もう全ての点に置いて、ね、もう人間の生活をして行く上に必要なもの、衣食住の一切がいわゆる限りなく、恵まれておる。ね、そういう例えばおかげをです皆さんも頂きなさらなきゃならない。そこで、なら九十節に出て、こうして理解しておられます、説いておられます、うー、教師に対する御理解は「銭金では拝まんのぞ」とこう、この方は。
同時に神様を商法にするような事はなおさら出来んのぞと、教えられておられるのだから、金光教はそうだと、言うたり思うたりしておって、実際銭金では拝んでいないかどうか。ね、実際は神様を、神を商法にしておらぬか、と私は先程から申しますような事に、事を、であれば、もう神を商法にしとるも同じ事だと思うてです、いよいよ実意丁寧を尽くして、いよいよ人が助かる事のためにお取り次ぎさせて頂かなきゃならん。と、改めて私共が分からなければならんと言う事と同時に、んならそのおかげを取り次ぎで頂く、なら信者氏子の側をしてはです、もう銭金では拝まっしゃるとじゃないから、もう金銭の事じゃ、は金光様何も言いなさらん。と言うような事ではなくて、ね、それこそ(おもい?)の竹をです、ね、いわゆる形に現す、銭金に現す。又は物に現して、ね、赤い心を神様へ示して行くという所。
そういうね、私は信心から何を得とくするかと、ありがたい勿体ない、有り難い勿体ないと、言うですね例えば、あー、おかげを頂かせてもらう時に、いわゆる限りないおかげを頂けれる事実をね、はー、それこそ中村さんじゃないけれども、お参りのし儲け、お供えのし儲けというようなおかげになってくるのです。
一つもお供えしたからと、へっとらんと。減るどころかそれが無尽、限りない物に繋がっていきよる事実をです、お互いが体験する。
ね・・・。
私は今朝から、あん、分からせて頂いた事の中に、教祖様がお取り次ぎを下さる時に、信心をいよいよ、おー、良い信心に育てて行く一つの、まぁ、お、コツあいとでもいうかね、思い方としてね、「始めの頃を忘れなければ結構である」と仰っておられますね。始めの頃、いわゆるおかげを頂いた頃、御神縁を頂いた頃。又は本当におかげを頂いたあの事。
私はその事を、お気付け頂いてから、はっと思わせて頂くのです。お供えをしたいと、と思うても(いに?)任せず。勿論、自分自身が、あー、言わば着る事、食べる事にすら不自由をしておるという時代でございますからね。だから、私共がですね、そういう、そういう例えば時代をね、私が忘れさえしなければ、と言う事。
私はこの、えー、初心とか、始めの頃を忘れないと言う事を、はどういう事かと、もうあの自分の事は忘れられん。あの難儀な事はおお、もう忘れとたっちゃ、忘れられんというだけの事じゃない。
ね、その自分のことを思うたらです、ね、な現在頂いておるおかげが有り難うして勿体のうしてたまらん、と言う事だと思いますね。
こんな物頂いて良かろうかと、例えば思わせて頂けれるような心。だから私は、実意をそこに表さなければおられない、昔の事を思うたらそげな贅沢な事は言うちゃおられん。その贅沢が結局は、どういう事になるかと言うと、慢心になったり、ね、又はそれがおかげを落とすいわゆる元になったりするわけでございますから、始めの頃を忘れなければという事は、は始めの事を、これを私で言うならば、ね、忘れない、もう昔の事を忘れん為に、これは私の代だけではない、子供孫の時代まで、ね、二食だけは、必ず二食にしてくれよと、お客さんのない限りは必ず、麦のお粥さんぞ、一食は。これはまぁ続けたいと思う、思うておりますが、ただそういう事が形式的に残っただけではダメです。
私は大体その程度でにか自分では分かってなかったような気がする。あの自分の事を思うたら勿体無い。と言う心が自ずと出来てくるから、なるほど始めの頃を忘れなければ信心は必ず成長する、おかげになってくるという、言われる。ただその時の事を忘れないと言うだけではなくて、その事を思うたら勿体無いということになって来る、そこに私はおかげが頂けれるという事を、まぁ今朝から思わせて頂いた。
まぁそれと、今日の九十五節をどのように、まぁ結び付けて良いかはちょっと分かりませんけれども、皆さんも思わせて頂いて、例えば私共がですね、言うならば、あー、真もない、一心もない、一生懸命もないお取次ぎでもさせて頂いておるような事なかろうか。あの時分であったら、それこそ一人の信者にでもコンコンとして御理解を説いた。一生懸命説いた。一生懸命にお取り次ぎをさせて頂いた。この頃段々おかげを頂いて、ね、したらもうそれを軽う見るような事であったら、もう神を商法に使っておるのではないかと、これは私自身強くそこんところを反省して行かねばなりませんが、ね、なら皆さんの側としてもです、一生懸命の信心をさせて頂いて、んおかげを頂いて、おかげ、神様の働きが分かって来た、ん、分かって来たら分かって来ただけ、ね、神様への言わば奉仕をおこだってはならん。
例えて言うならばです、本当にやっとかっとの自分の自分も、やっぱりお初穂は百円じゃった。ところがこの頃おかげを頂いておってもやっぱ百円というような事ではね、私はここでは許されないと思う。ね、これは言うならば、この九十五節の、まぁ言うならば裏なんです。ね、私共が、取次ぎ者が頂かねばならない、そんなら取次ぎを願う者は、ならどうあらなければならないかといったような事を申しましたですね。どうぞ。